三田典玄の「体育館の裏話」 Ver.2

例の映画について、出演者のリック・オバリーが語っている記事がある。
やはり、白人の文化というのは、独善がそのすべてなのだな、と思う。
いや、宗教というもの自身が独善なくして成り立ちえない以上、キリスト教という宗教の上にある白人文化ってのは、要するに「独善」を自省することさえない。リック・オバリーのインタビューでの言動は、宗教は「自分を恥じる」という文化を殺すことがある、という良い見本だ。
キリスト教をも批判したニーチェは「やがて、自省ということを知らないもっとも唾棄すべき人間の時代がやってくる」と言った。オバリーの存在はそれを証明しているかのようだ。
このインタビューで語られていることを見てみると、
と、いうことになる。だれが聞いても、「自分の信じていることだけが正しく、他人の信じている別のことは間違っている」という独善的でおかしな理屈になっているのがよくわかる。こういう人間の言うことは、当然のことながら信用に値はしない、というのが、まともな常識というものだ。
要するに、キリスト教(古代ユダヤ教の成れの果て)文化をベースとしている白人文化は、当時から「カルト」であって、「自分の信じていること以外は信じてはいけない」という「独善」がそのベースとなっている。だからこそ、キリストは当時の政府によって磔の憂き目にあった。
日本人のみならず、多くの地球上に生きる人は、独善だけでは世の中で生きていけないことをよく知っている。人にはそれぞれの立場や考え方の違いがあることを知っている。だから、相手の立場に立って、相手のことを考え、自分の考え方や言動を決める。
殺される立場には、イルカもウシもブタもない。殺される側の気持ちになれば、どれも苦痛を伴い、どれも恐怖をいだき、どれも恐ろしいことだと認識するだろう。その立場に立つことができないのが、オバリーのようなサンプルに代表される白人だ。あくまでも自分の立場しかなく、他人の立場を一切考えに入れないでモノを語る。イルカの立場になることはできても、ウシやブタの立場にはならない、というのは当然のことながら、独善以外の何者でもないだろう。
ただ、白人全部がそうだ、というわけではない。白人でもまるで他の人達のように、人の立場を尊重することを大切なこととしている人を、私は何人も知っている。白人には「恥知らず」の白人と「思慮深く相手のこともちゃんと考える」白人がいる。オバリーはその前者であることは明らかだ。
菜食主義、というのも独善といえば独善だ。遺伝子を持ち生殖で子孫を残す、という生物としての条件を備える植物にもイルカと同じように命がある。だから、オバリーの言うことには矛盾があり、私たちはそれを是とするわけにはいかないのだ。
人は結局、それがなんであれ、生き物を殺し、食べてしか生きていけない。だが、生きていくためにする殺生はまた、人間の人間自身による殺生も正当化する。しかし、同じ生き物として、植物にさえ愛情を注ぐことができるのが人間だ。その人でさえ、なにか生き物を殺して食べるほか、生きる道はない。ただ、そのことを忘れて生きることは、殺される側のことを一切考えずに生きることは、それもおかしなことだ。なぜならば、人間だって、どこかでそういう立場になることがあるかも知れないのだから。
オバリーやこの映画の存在が日本人の多くにとって醜悪に見えるのは、これらの映画やそれを作った人たちに、「(殺される側の)相手の立場に立つ」ということがあまりに恣意的に選択されており、そこに「人種差別(Racial discrimination)」を平気でする人間像を明確に見ることができるからだ。
オバリーやその仲間たちは、おそらく「差別される側」には立ったことがないのだろう。だから他人や他の動物、見も知らぬ生き物たちへの愛情が欠けていても、なんの自省も無いのではないだろうか?だから、彼は無意識にこういうことが口にできるのではないだろうか?
いつの世でも、差別される側、虐げられる側に立ったことのない人間は、他人への配慮を欠き、それがために自らの墓穴を掘ってきた。
ニーチェの言うところの「もっとも唾棄すべき人間」のサンプルがここにある。
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