「大衆化」ということ

 

Googleやネットの道具は、とにかく大衆化を徹底させた。売れるもの、多くのアクセスがあるものを「善」として、それ以外の価値は退けた。たとえそう思っていなくても、やはり「数には勝てない」という気持ちもどこからか湧いてくる。

しかし、大衆化されたものや、多くの人の目が集まるものだけが「良いもの」とはもちろん限らない。

 しかし、「数の上で負ける」ということは「存在しない」ということと同じだが、その負けたものの中に、これから大きくなる芽を持ったものなんかがあったりする。

Googleをはじめとしたネットの文化は、まるでブルドーザーのように、小さくか弱く,良いものを、まるでこの世に存在しないかのごとく消してしまう、という感じさえする。高度で知的なものが軒並み「無価値」にされていく感じがある。しかも、権威でそれが行われるのではなく大衆という「数」でそれが行われる。これは新しい時代の「権力」の発生だ。

これまでは、か弱い存在であるにもかかわらず、これからの人間に必要とされてきたものは、仕方なく権威がそれを守った。しかし、その権威そのものが破壊されたため、大衆化によって、本当に必要と考えられるものが、消え去る可能性が高くなった。文化に対する「集団テロ」と、このことを言ってもあながち間違いではないだろう。

小さなもの、派手ではないもの、弱いものの良さ。それをどう守っていくか、ということをあらためて思う。

三田典玄の「体育館の裏話」 Ver.2: 「大衆化」ということ
http://report.mita.minato.tokyo.jp/article.php/20100226191845835